エベレスト北東稜初登攀

 

1.はじめに

日本大学エベレスト登山隊1995は、日本大学山岳部創部70周年記念行事として、未踏の北東稜からの初登頂を目指しました。私たちは、ネパール・ヒマラヤ、グリーンランド、そして日本人初の北極点到達と活動の場は世界の高峰、秘境に数々の足跡を残してまいりましたが、世界最高峰への憧憬はつのるばかりでした。1992年頃、若手OBが提案し、未踏ルートとして唯一残されている北東稜に注目しました。その困難な尾根は、我々のような単独大学のレベルで挑戦するにふさわしいルートなのかどうか。実力のあるクライマーはいるのか。OB会で検討を重ねるに連れて、登山隊の規模は次第に大きくなり、本部の山岳部から各学部山岳部とOB会にまで拡大し、オール日大の計画として進んでいきました。
今回の登山は我々にとって失敗は許されないものでした。それは出発直前に同時期同ルートにインド陸軍の大きな登山隊が入るという情報がとびこみ、さらに秋には韓国隊も試みるというものでした。こうした状況で緊張の続く中の1995年2月19日に、私たちは日本を出発しました。

2.高所トレーニング

若手中心の隊員構成で、経験不足は否めない現実でした。ランニングを中心とした体力トレーニングは個人にまかせ、富士山、八ガ岳、剣岳八ツ峰等で氷雪トレーニング合宿を重ねて行きました。しかし富士山より高所がない日本での限界を感じ、出発まで1年という差し迫った時期でしたが1994年6月にマッキンリー(6,194m)、9月には世界第6位の高峰チョオユー(8,201m)へ高所トレーニングのための登山隊を計画しました。
マッキンリーは、天候にも恵まれ順調に登頂に成功しましたが、チョオユーでは、高所順応が不十分でアタックした結果、凍傷者や頂上直下でのビバークなど遭難すれすれの行動となりました。3名がひどい凍傷で帰国後長期の入院が必要となりましたが、そのうち田村隊員だけはなんとかエベレストの出発に間に合わせることができました。

3.エベレスト登山史

世界最高峰エベレスト(8848b)は、中国チベット自治区とネパールとの国境に聳える山で、チベットではチョモランマ(大地の女神)と呼ばれ、戦前英国隊によりチベット側から8回、戦後ネパール側から3回の挑戦を退け、1953年にやっと英国隊によりネパール側から初登頂されました。この山の地形は頂上から南に2kmの南東稜がのび、初登頂はここからなされました。また西に5.6kmの西稜がのび、1963年アメリカ隊により登頂されました。最後に残った北東稜は、北東にラ・ピューラまで5.5km尾根が延びているますが途中から北に支尾根がでており、1960年に中国隊によりこのルートから登頂されました。近年、エベレスト北面にも多くのルートが開拓されるようになり、ルートの呼称が変更されました。1988年、「ナショナルジオグラフィック」発行のエベレスト周辺図(二万五000および五万分ノ一)に、従来の北東稜が北稜、東北東稜が北東稜、北壁が北西壁に改められわれわれもその呼称に従いました。

4.エベレスト北東稜

エベレスト北東稜は、エベレスト最後の課題として世界中の登山家に注目され、過去8隊の試みを退けてきた屈指の難ルートです。北東稜への最初の試みは1970年代、現在の中国登山協会首席、ァ曙生が北東稜を7200b辺りまで試登しています。
1982年春、クリス・ボニントン隊長ら6人の英国隊が挑戦しました。クライマーは4人のみ。無酸素、アルパインスタイルで挑みましたが、困難な岩峰群(ピナクル帯)で力尽き、ピーター・ボードマンとジョー・タスカーが行方不明となり失敗に終わりました。彼はその報告書の中で「美しく、未知でよく見えるこの尾根は、登頂が困難ではあるが不可能ではない。そしてその山は小さな登山隊により、高所ポーター、酸素なしで登られるべきである。」といっています。
しかし、あまりに長く厳しいルートであることが分かった以上、その後の登山隊は慎重に、酸素、シェルパを使った戦術に変わり、この劇的な事件の後も英国隊が中心となって初登頂への執拗な挑戦を繰り返しました。
1988年に英国のハリー・テイラーとラッセル・ブライスがルートの最難関と見られてきたピナクル帯を初めて突破し、北東稜の迷宮の鍵が遂に開けられたのでした。しかし、2人の体力もそこまでで、北稜から下山してしました。
1992年、日本・カザフスタン隊(隊長、大宮求)が挑戦し、第2ピナクルまで達しましたが、悪天候につかまり行動不能となりました。カザフ人隊員がビバーク中の大宮求氏を救助しましたが、星学氏が行方不明となって失敗に終わりました。
昨年秋、クリス・ボニントン氏が来日の際、「エベレストには現在最後の大きな挑戦として北東稜が残っており、その未踏部分を通って頂上に行くとき、はたして酸素なしで北東稜を登りきることができるか疑問が残っている。それはこの未踏部分を通って登る遠征隊は全員疲労のため、途中で下山している。大切なことは挑戦する対象に対して、適切な戦略と戦術をもつことであり、成功の可能性を考え、そのために大規模な隊を組むのも適切なことだと思う。このロジスティックがうまくいけば、再びチャンスが日大隊にもある。」といっていました。

5.タクティクス

登山隊員の他、医学部から高所医学、理工学部から放射線学と気象学の学術隊員加えて20人の隊員を選出しました。
冬の北西からのジェットストリームが弱まり、ベンガル湾から発生したモンスーンにとってかわるときがヒマラヤで一番天気が安定するといわれ、登頂は1995年5月10日前後とし、登山計画をたてました。
気象の情報から登頂時期を判断することが最も重要だと考え、気象衛星ノアをBCで受信し、ニューデリーとタシケントから発信される気象FAXの受信、気象ロボットの観測等エベレストの局地的な気象情報を東京にインマルサットの衛星電話で送り、(財)日本気象協会から天気予報出してもらうというシステムを作り上げました。
過去8回の失敗した行動表を分析し、この尾根に最も適切なタクティクス(戦術)を研究した結果、完全なるロジスティックス(後方支援を含む登攀の進め方)を組み立てた上での極地法(包囲法)登山でのぞむことになりました。悪天候につかまっても補給が途絶えないよう、バックアップ体制を確立し、しかもノーマルルート(北稜)からのサポートは入れずに完璧な戦術を実現するものです。
23人のクライミング・シェルパは全員がエベレスト登山の経験者で2人の名サーダー、ラクパ・テンジンとナワン・ヨンデンにシェルパ等の管理を任せました。また、今回初めて使用した新型軽量のロシア製酸素ボンベ(4リッター、300気圧)は従来のフランス製ボンベの2倍の能力があり、万全の体制で未踏の北東稜に挑むことになりました。
私たちは、環境の問題にも積極的に取り組み、無煙式ゴミ焼却炉をBCに設置、ごみの減量に努めました。高所では世界初の試みで、太陽電池でファンを回し、燃焼時の排煙煙を減らすことができました。使用済み酸素ボンベは回収し、ロシアに送り返してリサイクルをはかりました。

6.高所順応

1995年2月19日、先発隊がネパールのカトマンズ(1350b)から入山。エベレスト北面に比べ、比較的暖かいネパール側、エベレスト南面でクーンブのカラパタール(5500b)までの高度順応トレーニングを行いました。
ABCにスムーズに入るためには、アイランドピーク等、6000b以上の高所順応を済ませておきたいという意見もありましたが、長期におよぶ本番の登攀の前に体力を温存することも必要だと思いカラパタールにとどめておくことにしました。結果的にこのトレッキングは、日本での超過密なスケジュールで衰退ぎみだった身体を回復させるに大きく役立ちました。

7.エベレストに立つ

中国国境の街ザンムー(2300b)へ向かいましたが大雪のため1週間足止めを余儀なくされました。3月17日、国境を越え、高度順化を兼ねてニエラム(3800b)2泊、シガール(4300b)3泊の後、凍った河をいくつも渡り、22日、BC(5150b)着。ロンボク氷河舌端のモレーンの下で、凍った氷河湖から水を得ます。初期のBCでは気温がマイナス25℃近くまで下がり、29日、野本隊員がC2(6000b)付近で凍傷のため一時的にシガールへ下山しました。強風でヤクによる隊荷の輸送が思うに任せず、31日、予定から8日遅れでABC(6350b)建設。C2〜ABC(C3)間は、モレーン上のトレールは長くつらい登りですが、氷塔の眺めが美しく、上部厳しい登攀前、しばし安堵できる場所です。C4(7100b)建設は悪天候のため難航し、4月14日、予定から12日遅れで設営。15・16日の2日間で最初の難関、第一バットレス(7560b)を突破、17日、C5(7850b)設営。一旦、BCで休養の後、27〜29日の3日間で最大の難関ピナクル帯を攻略、C6(8350b)予定地に到着しました。BCで4日間の休養の後、頂上アタックに向かい、5月10日、C7(8560b)建設。ネパール時間、11日午前4時、C7発。ウミユリの化石が出ると云われるイエローバンドを通過し、第一ステップ、第二ステップの岩壁を越え、最後の三角雪田は深い雪のラッセルに苦しめられましたがネパール時間、11日午前7時登頂。頂上付近は石灰岩質の脆い岩に雪庇が覆った場所で、古野、井本他、シェルパ4人が頂上に立ちました。
日本を出発して80日目の登頂でした。
1時間の滞在の後、宿泊予定地のC5をとばし、一気に安全なABCまであっという間に駆け下りみんなの祝福をうけることができました。
誰がこの尾根を登りきるのか。日本人には無理だともいわれてきました。多くの山岳関係者も、単一大学隊には登れないだろうと予想しました。天候に恵まれたこともあったが、とにかく全力を尽くしてわれわれは登りきりました。それも北稜からのサポートなしで。
我々と一緒にエベレスト6回目の登頂に成功したラクパ・ヌル・シェルパは、7回目の登頂をめざし、韓国隊のサポートで、北東稜ルートから登頂を目指しましたが、1995年9月10日、C4下の雪面で雪崩に流され死亡しました。心より冥福をお祈りいたします。

日本大学エベレスト登山隊1995
登攀隊長 古野 淳