エベレストに立つ

中国国境の街ザンムー(2300b)へ向かいましたが大雪のため1週間足止めを余儀なくされました。3月17日、国境を越え、高度順化を兼ねてニエラム(3800b)2泊、シガール(4300b)3泊の後、凍った河をいくつも渡り、22日、BC(5150b)着。ロンボク氷河舌端のモレーンの下で、凍った氷河湖から水を得ます。初期のBCでは気温がマイナス25℃近くまで下がり、29日、野本隊員がC2(6000b)付近で凍傷のため一時的にシガールへ下山しました。強風でヤクによる隊荷の輸送が思うに任せず、31日、予定から8日遅れでABC(6350b)建設。C2〜ABC(C3)間は、モレーン上のトレールは長くつらい登りですが、氷塔の眺めが美しく、上部厳しい登攀前、しばし安堵できる場所です。C4(7100b)建設は悪天候のため難航し、4月14日、予定から12日遅れで設営。15・16日の2日間で最初の難関、第一バットレス(7560b)を突破、17日、C5(7850b)設営。一旦、BCで休養の後、27〜29日の3日間で最大の難関ピナクル帯を攻略、C6(8350b)予定地に到着しました。BCで4日間の休養の後、頂上アタックに向かい、5月10日、C7(8560b)建設。ネパール時間、11日午前4時、C7発。ウミユリの化石が出ると云われるイエローバンドを通過し、第一ステップ、第二ステップの岩壁を越え、最後の三角雪田は深い雪のラッセルに苦しめられましたがネパール時間、11日午前7時登頂。頂上付近は石灰岩質の脆い岩に雪庇が覆った場所で、古野、井本他、シェルパ4人が頂上に立ちました。
 日本を出発して80日目の登頂でした。
 1時間の滞在の後、宿泊予定地のC5をとばし、一気に安全なABCまであっという間に駆け下りみんなの祝福をうけることができました。
 誰がこの尾根を登りきるのか。日本人には無理だともいわれてきました。多くの山岳関係者も、単一大学隊には登れないだろうと予想しました。天候に恵まれたこともあったが、とにかく全力を尽くしてわれわれは登りきりました。それも北稜からのサポートなしで。
 我々と一緒にエベレスト6回目の登頂に成功したラクパ・ヌル・シェルパは、7回目の登頂をめざし、韓国隊のサポートで、北東稜ルートから登頂を目指しましたが、1995年9月10日、C4下の雪面で雪崩に流され死亡しました。心より冥福をお祈りいたします。


日本大学エベレスト登山隊1995
登攀隊長 古野 淳