エベレスト北東稜

 エベレスト北東稜は、エベレスト最後の課題として世界中の登山家に注目され、過去8隊の試みを退けてきた屈指の難ルートです。北東稜への最初の試みは1970年代、現在の中国登山協会首席、ァ曙生が北東稜を7200b辺りまで試登しています。
 1982年春、クリス・ボニントン隊長ら6人の英国隊が挑戦しました。クライマーは4人のみ。無酸素、アルパインスタイルで挑みましたが、困難な岩峰群(ピナクル帯)で力尽き、ピーター・ボードマンとジョー・タスカーが行方不明となり失敗に終わりました。彼はその報告書の中で「美しく、未知でよく見えるこの尾根は、登頂が困難ではあるが不可能ではない。そしてその山は小さな登山隊により、高所ポーター、酸素なしで登られるべきである。」といっています。
 しかし、あまりに長く厳しいルートであることが分かった以上、その後の登山隊は慎重に、酸素、シェルパを使った戦術に変わり、この劇的な事件の後も英国隊が中心となって初登頂への執拗な挑戦を繰り返しました。
 1988年に英国のハリー・テイラーとラッセル・ブライスがルートの最難関と見られてきたピナクル帯を初めて突破し、北東稜の迷宮の鍵が遂に開けられたのでした。しかし、2人の体力もそこまでで、北稜から下山してしました。
 1992年、日本・カザフスタン隊(隊長、大宮求)が挑戦し、第2ピナクルまで達しましたが、悪天候につかまり行動不能となりました。カザフ人隊員がビバーク中の大宮求氏を救助しましたが、星学氏が行方不明となって失敗に終わりました。
 昨年秋、クリス・ボニントン氏が来日の際、「エベレストには現在最後の大きな挑戦として北東稜が残っており、その未踏部分を通って頂上に行くとき、はたして酸素なしで北東稜を登りきることができるか疑問が残っている。それはこの未踏部分を通って登る遠征隊は全員疲労のため、途中で下山している。大切なことは挑戦する対象に対して、適切な戦略と戦術をもつことであり、成功の可能性を考え、そのために大規模な隊を組むのも適切なことだと思う。このロジスティックがうまくいけば、再びチャンスが日大隊にもある。」といっていました。