ピナクル帯ルート工作


4月26日 晴
 
C5から見上げる第1ピナクルは、異様に大きく立ち塞がっていてピナクルと呼ぶのはふさわしくない感じがする。いよいよ北東稜ルートの核心部、ピナクル群工作である。C5の忍田、田村、シェルパ3名は、第1ピナクルの3分の1程度、12ピッチ工作後C4に戻る。
古野、シェルパ3名はC4からC5へ。井本、原田、野口、シェルパ1名BCからABCへ。

4月27日 晴のち曇
 今日も低温と強風のため、朝方は天幕から出られず9時に行動を起こす。第1ピナクル下部の浅いルンゼをさらに直上して下部を抜け、上部は急な雪稜を忠実に辿り、第1ピナクルのピークへと至った。基部からのピッチ数は16。過去の隊が残置したフィックスロープが何本かあった。C5から第1ピナクルまでは約3時間。標高差約300mである。この日はここまででC5に引き返した。

4月28日 晴、強風
 今日は第1ピナクルを越え、第2ピナクルに向かった。第1の下降ではラダーが必要だとの判断で準備したが、たいしたこともなく下ることができ、そこから湾曲した細い岩稜に不安定な状態で雪が付いているため、ルートはABC側にしかとれず、積み重なった脆い岩場を通過して行く。雪面にスノーバーを打ち込んでも表面がクラストしたモナカの皮状で、内部がフカフカで効いている感じがしないが、騙しながらの岩稜下降。雪のトンネルを越えてルートを開き、大きなキノコ状の雪の下を回り込んだ。第2ピナクル(8250m)の雪壁は傾斜が一部80度、平均60度ぐらいで、ABC側の岩場に支点を取り、2ピッチでピークに達する。5ピッチ、1時間半の登攀である。第2ピナクルは馬の背状で、8mの程の水平稜が続く。ピークから5m程先に進んだが右側、登攀ルートから2mの市に1982年の英国隊隊員の遺体が半分雪に埋もれた状態で確認された。その近くにトロールのシットハーネスが置いてあり、なんとも不気味な光景であった。次第にガスに覆われ視界が効かず引き返した。C5に戻るとC4から井本と3名のシェルパが登ってきた。最後のルート工作は彼らに任せて下山することにした。

4月29日 晴、強風
 井本と3名のシェルパは古野と交代したが、朝方は低温で風が強く、またしても9時の遅い出発となってしまった。第1ピナクル、第2ピナクルを越え、残された最終ピナクル手前のコルまでのルート工作である。第2ピナクルより順層の岩が積み重なった小岩峰をいくつも超えると、目の前に高さ50m程の岩峰にぶつかった。直登は面倒になりそうなのでABCからの指示を仰ぎながら、ABC側に走るバンドに沿って下りながら回り込んだ後、斜め右上に直上しているルンゼに入り、2ピッチ登った後、雪の小ピークに出た。この稜線上から最終ピナクル手前の雪のコルを確認した。当初の計画ではこのコルにC6を建設する予定であったので、ここをC6建設のデポ地と決め、次第に天気が悪くなってきたのでこのまま引き返す。第2ピナクルの雪壁登攀以降、残置のフィックスロープなどがなくなった。C5からC6へのルート工作は、雪の付き方が悪くなかったためか、4日間でルートを開くことができた。これは酸素を有効に活用し、少人数の機動性で行動できたためだと思う。

 ルート工作全体を通して、前半は低温と強風に見舞われ、厳しい登攀を要求されたが、中盤以降、次第に天候が安定し、予想以上のルート工作活動を展開できた。それにしてもシェルパの能力と、高性能な酸素器具の力は大きかった。これでC6までのルートを確保し、アタックに備えて、隊員はBCへ、シェルパはABCで休養をとることになった。